──RIFF 6
どれぐらいそうやって立ち尽くしていたのかわからない。多分数分。だけど酷く長い時間だったような感覚があった。握っている拳、じんわりと血が通い始めた指先をそっと開く。
「……クリス?」
ニールに声をかけられて、漸く現実に引き戻された。ニールの歌声はとっくに聞こえなくなっていて、いつもと変わらないニールが目の前に立っていた。
思わずニールの顔を見上げてしまい、その距離の近さに慌てて顔を逸らす。
「……ごめん。……ちょっと目がさめて」
「別に謝る必要はねぇだろ……。いきなり暗いところに立ってるから、幽霊でもいるのかと思ったぜ」
「まさか。……トイレにいく所だったんだ。ほら、ビール結構飲んだだろ」
ニールは苦笑しながら、クリスの背中を軽く叩いた。
「じゃぁ早く行ってこい」
「う、うん」
別に行きたくもないトイレに向かい、洗面の明かりを付ける。ずっと暗い中に居たせいでやけに眩しく感じた。意味もなく蛇口を捻り、洗面台の中心に水が流れていくのをただ見続ける。
ドキドキした心音が水の音にかき消される。
ニールが、まさかあのバンドのボーカルだったなんて。
そっくりな声と歌い方の別人という可能性もあるが、自分の耳には自信があるので聞き間違いではないはずだ。何故今まで気付かなかったのだろう。一回だけだがライブにも行ったことがあったのに。
クリスは洗面所の鏡に映る自分を見ながら、その奥深くの記憶を引っ張り出した。
あの日、日頃から聞いていた深夜のラジオ番組で、初めてかかったニールのバンドの曲。そのラジオ番組はインディーズのバンドをメインに紹介する番組で、あの夜もいくつかのバンドが紹介されていた。
ニールのバンドはその中のひとつだった。ノリの良い曲とバラードが一曲ずつ流され、それを聞いた瞬間、なんて魅力的なボーカルなのだろうと思った。曲調も自分の好きな要素が集結したような感じだったのもあり、強烈に惹きつけられたのだ。
次の日、ネットで調べてアルバムが出ていることを知り、その次の日には遠くのインディーズを扱うCD店まで行って出ていたアルバム二枚を一気に買った。
それからはポータブルプレイヤーに曲を取り込み、毎日繰り返し聴いていたのだ。
だけど、予定が合わなかったせいでライブには一度しか行けなかった。
そのライブも、初めていったライブハウスで緊張していたせいもあり、メンバーの姿までは覚えていない。
その代わり、音は違う。今でも思い出せるボーカルの声、歌い方。生で聞いた時は鳥肌が立ち、その夜は興奮して中々寝付けなかったのを覚えている。
バンドは結成から二年経っていたようで、何故今まで知らずに居たのだろうと悔しい思いをした物だ。
しかし、ニールのバンドは、クリスが知ってほどなく突然解散した。
CDジャケットもメンバーの写真では無かったし、元からほとんど顔出しをしていなかったようで、表立っての情報は見つからず。メンバーがその後どうなったのかもわからなくなった。
プロデビューもしていない数多くのアマチュアバンドなんて、よほど話題になる偉業を成し遂げでもしない限り、解散後なんてすぐに世間からは忘れられてしまう。
日々バンドは生まれて、大勢がプロを目指すのだ。当然だろう。
それでも諦められず、信憑性の薄いネットを日夜彷徨った。そこで発見したのだ。匿名の音楽情報を書き込むサイトでニールのバンドの事を書いている人間を。
その書き込みによると、移動中、メンバーが乗っていた車が事故に遭い、全員死んだというものだった。他にも何件か見つけたが、そのどれもが、希望を無くさせる物ばかりで、それ以上見るのが怖くて調べるのをやめた。
残されたのは、手元にある音源のみになった。あれから五年、次第に聴く回数も減り、今ではたまに懐かしくなって引っ張り出す程度。部屋に戻れば、CDの棚に今も残っているはずだ。
ニールが昔ボーカルをやっていたという話は本人からは一度も聞いた事が無い。
知り合った頃はもうこの辺では名の知れたギタリストだったので、ニールが昔やっていたバンドの話が出たとしても、そのバンドと重ねることすら無かったからだ。
クリスは一度冷水で顔を洗って気持ちを落ち着かせ、流しっぱなしにしていた水道を止めた。
顎からぽたりと落ちる水滴を側にあったタオルで拭う。
あまり長くトイレにいるのもおかしいので、そっとドアを開けてみると、部屋には灯りが点いていた。ニールはまだ起きているようだ。
戻ってきたクリスの姿をみて心配気に眉を顰めた。
「どうした、腹でも痛ぇのか?」
「ううん、そんなことない。全然、平気」
ニール本人に直接聞いてみるのが一番いいのかもしれない。知った所でニールとの関係は変わらないし。きっと、話してくれる。
クリスは出来るだけ自然な態度を装ってベッドへ腰掛け口を開いた。
「ニールって、歌上手いんだな。さっき少しだけ聴いたんだ。……ビックリした」
返事を待って唾を飲みこむと、ニールが気まずそうに首の裏へ手をやって視線を逸らした。
「なんだ、聴いてたのかよ。……声掛けてくれりゃ良かったじゃねぇか」
「いや、つい掛けそびれちゃって。ニールが歌うの初めて聴いたから驚いて」
「ライブが近いからな。コーラスの練習だ。別にうまくもなんともねぇよ、あんなのただの鼻歌だろ」
大したことないと言い捨てるニールの言葉に、クリスは首を振った。
「そんな事ないっ」
自分でも驚く程強く否定してしまい、失敗したと後悔する。こんなの全然自然じゃない。
「クリス……?」
「あ、……いや。本当に、……そんな事ない。凄くいい声だったよ。ニールならボーカルもやれるんじゃない?」
「んなわけねぇだろ。俺はフロントマンには向いてねぇよ。ずっと、……――ギターだけでやってきてんだ」
それ以上の詮索を拒むように押し殺した返事。ニールが嘘をついた。
理由はわからないけれど。だけど、本人が嘘をついてまで隠す事を、無理に食い下がって聞き出すなんて、今は出来そうもなかった。
「……そっか。いいよな、ニールは。色々才能があってさ。ギターも凄くうまいし」
「よせよ……。お前だって曲も作れるし、ギターだってかなりうまいと俺は思ってるぜ?」
「そうかな。そう言ってくれるのは、ニールだけだけどな」
「向上心も結構だが、あんまり高望みすると疲れちまうからな。程々にしとけよ」
「……うん」
「……才能なんて、みんな何かしら持ってんだよ。自分でそれに気付いて、活かせるかどうか、ただそれだけの違いだろ」
ニールはそう言った後、一瞬寂しげな表情を浮かべた。
「そうかもしれないな。……じゃぁ、そろそろ寝よう。明日も朝からバイトあるし」
「おう、そうだな、じゃオヤスミ」
「うん。オヤスミ」
パッと落とされる照明、暗く鎮まった部屋。
本当は全く眠気なんて無かった。胸の中に残る幾つもの答えのない疑問が消化不良のように溜まっている。そして何より、ニールが自分に嘘をついたことがショックだった。
隠し事なんて大人になれば多かれ少なかれある。
その全部を知りたいとか、そんな事は全く思っていないけれど。
自分になら話してくれるんじゃないか、そう思っていたのはただの自分の自惚れだった。
自分はニールに何を求めているのか。親友としてこれ以上何を望むというのか。今まで一度も感じた事の無い感情が、ぽつんと残される。隠れていたそれにスポットライトが当たってしまえばもう、それを気付かなかった事には出来なくて。
クリスはベッドから一度だけニールの背中を見て、無理矢理目を閉じた。ニールの歌声を、今も尚、耳の奥に感じながら。
* * *
次の日、クリスから連絡があった。「少し考えたいことがあるから、今日は一人で練習する」、と。
こちらはクリスに頼んでいる身なのだから、メンバーもそれでいいと納得してくれた。約束通り、次の日に顔を出したクリスは、新曲の部分を含めた全てを完璧な状態で仕上げていて、皆で驚いた物だ。相当な時間、下手すると一日中練習していたのかも知れない。
そして今日、明日のライブを控え一通りリハーサルを終えた所だった。
クリスが入ったことの影響は全てが良い方向に働き、今までに無いぐらいのまとまりをみせた。元からクリスがメンバーの一人だったのだと、錯覚を起こしそうな程に。
「クリス。お前本当にうまくなったよな」
トミーが休憩を兼ねた一服をしながら感心したようにクリスに話しかける。
「そんな事ないって。でも、もし少しでもうまくなってたとしたら、ニールのおかげかな」
「おっ! またクリスの師匠自慢がはじまったか!?」
「な、何だよ。そんなんじゃないって。ニールには色々教えて貰ってるからって意味」
「まぁ、確かに、それはあるかもな。俺が今まで出会ったギタリストで一番の腕なのは認める。んで? ニールに、他に何教わってるんだよ」
トミーが悪戯めいた口調で聞いてくる。
「何って? ギターの他って事?」
「そうそう。例えば、そうだな……」
「……?」
「女の口説き方とか? 悦ばせ方とかさ、色々あるだろ」
「、っ」
クリスは吸っていた煙草に盛大に噎せて咳き込んだ。何を聞かれるかと思って構えていたのに、全くもって馬鹿馬鹿しくなるような質問だ。何度か咳払いを繰り返し、クリスは苦笑してわざと肩を竦めてみせた。
「残念ながら、それは教えて貰ってないかな。今度もし聞いたら、トミーにも教えようか」
「頼むわ」
トミーも笑ってそれに返す。しかし急に真顔になると伸びたあごひげに手を伸ばした。
「でもマジな話。あいつ、結構モテるんだよな……。今度ライブの後見ててみろよ。出待ちのねぇちゃんに囲まれるニールがみられるぜ」
「トミーだって、可愛い恋人がいるよね? 彼女元気にしてる?」
「うっ……。クリスお前記憶力いいな……」
トミーが笑いながら隣の自販機に小銭を入れる。
「もうとっくの昔に振られてるって。ドラムの彼は目立たないからボーカルかギターの男がいいんだとよ」
「本当にそんな理由で!?」
「さぁ、知らん。まぁ、俺に飽きただけなんじゃないかな。いいのいいの、俺は一人の方が楽だし、遊ぶ女は一夜限りの方がスリルがあるってもんだ」
トミーは負け惜しみなのかわからないような事を言って盛大に笑った。
一人の方が楽だというのはわからなくもない。全ての時間を自由に使えるのは確かに気楽で楽しいし、同性の友人と過ごす方が気も遣わなくていい。
トミーは、そこにいたメンバーそれぞれに何を飲むかを聞いて代わりに買ってやると、最後にクリスへと振り向いた。
「お前は、なににする? 買ってやるよ」
「いいの? サンキュー。じゃぁ、俺はゲーターレードで」
「OK」
トミーが再びポケットの小銭を探る。掌で数えながら自販機へと投入してボタンを押す。しかし、自販機は突然だんまりを決め込んだ。
「あれ? なんで出てこないんだろ?」
何度かボタンを押していると、最後に部屋から出て来たニールが歩いてきて煙草を取り出し、徐に足を止めた。
「……? 何してんだ?」
「いや、金入れたのに出てこないんだよ」
「あー、またか。ちょっとどいてみろ」
トミーが少し横に移動すると、ニールは取り出した煙草を咥えたまま錆びた自販機の横をガツンと蹴った。内部で激しい音がして、無事にゲーターレードが取り出し口に落っこちてくる。
乱暴な扱いを受けた所為なのか、中のジュースがもの凄く泡立っているのが見える。
「これ、時々こうなっちまうんだよ。いつからあるんだか知らねぇけど、ボロいからな」
ニールが笑って取り出したジュースをクリスへと放る。
「あんまり蹴ったりしてると、マジで壊れるかもよ? ステイシーに弁償しろって言われても知らないから」
「俺の所為なのかよ。ぶっ壊れてるコイツのせいだろ」
ニールが蹴った部分をみると、そこだけ塗装が他より剥げている。どうやら、他にもおなじ事をしている人間が沢山居そうだ。クリスは受け取ったジュースの泡が消えるのを待ってキャップをねじった。
「トミー、有難う。いただきます」
クリスが礼を言ってジュースに口を付ける。ニールがそのあと自分の飲み物を買ったが、それは問題なく落っこちてきた。自販機は気分屋らしい。
クリスはもう一本煙草を取り出して咥え、冷たい壁に背を預けた。
狭い喫煙所はメンバー全員の煙草の煙で充満している。トミーとニールが時々笑いながら話すのを見てから、視線を移す。ここにいる全員が仲間なのだ。バンドという絆で繋がっている。
学年は一つ下らしいがニールと同じ歳でいつも面倒見がいいトミー。ボーカルのブラスとベースのスティーブンは前のバンドでも一緒にやっていたらしくSADCRUE結成時には二人同時に加入してきたと前に聞いた。歳はクリスより一つ上の二十五歳だ。
それぞれが和気藹々とした雰囲気で煙草をくゆらせる。
明日にライブが迫って自分は既にドキドキしているというのに、流石と言った所か、この場にいる皆にはそういった雰囲気は無かった。
立て続けに数本煙草を吸って、休憩を終える。
少し肌寒く感じてクリスは腰に巻いていたシャツに腕を通した。今日はほとんどスタジオに籠もっているので、昼頃来た時は晴れていたとはいえ現在の外の天気はわからない。LAは朝晩の気温に差があるので、今夜は少し冷えているのかも知れない。
煙草の箱を後ろポケットにしまってスタジオへ戻るクリスの後に、皆が続く。
「ニール、ちょっといいか」
ブラスが足を止めて一番後ろにいたニールへと声をかけた。
「なんだ?」
「明日皆に話があるんだ。少し時間取ってくれるかな」
「ああ、いいけど。話って?」
「明日話すよ」
「そうか? 了解、じゃぁその時、聞かせてくれ」
ブラスが片手を挙げて部屋へ戻っていく。