──RIFF 14
マットは番号を変えておらず、後日無事に連絡を取ることが出来た。
今までのことを謝り、一度会って話せないかと持ちかけたニールは、電話越しのマットの声にそっと眉を顰めた。やけに興奮した状態で話すマットが何度も鼻をすする音が聞こえてくる。どこか違和感を抱きながらも電話を切った。
時間も遅かったし、その時は酒でも呑んでいたのだろうと、その程度にしか考えていなかった。
次の日の晩、待ち合わせの店で待っていたニールの目の前に現れたマットはまるで別人のようで、最初は気付けなかったぐらいだ。目を引く派手な身なり、黒かった髪を鮮やかなブルーに染めているせいで白い肌が怪しさを感じるほどに蒼白く見えた。
「よう、ニール。久し振りじゃん! 電話くれて凄い嬉しかったぜ。あー、こいつ。俺の彼女ね」
ピンク色に染めた髪を高い位置で結い上げている女がマットの首に絡みついて、ニールを挑発するように上目遣いで見上げた。久々に会うのに見知らぬ女連れでは話せる内容が限られてくる。
「俺はニールだ。宜しく」
手を差し出すと、女はニールの手を取って何かを掌に握らせた。ニヤニヤしているマットと目を合わせておかしそうに笑っている。何を渡されたのか、そう思って掌を開いてみると、そこには何かの粉が入った小袋があった。一目で、ヤバイ物だとわかった。
ニールはそれを隠すように握りながら、呆れたようにマットを見下ろした。
「何のジョークだ」
「ジョークじゃないって」
ワシントン州とコロラド州では、マリファナが合法化されている。嗜好品として嗜む人間も沢山いて違法ではない。しかし、マリファナを入り口としてドラッグに染まり、最終的にはコカインやヘロインに移行してドラッグ中毒になる若者が大勢いることも知っていた。
最初感じた違和感はこのせいだったのだとわかる。
「折角だが、俺はこの手のもんはやらねぇんだ」
ニールは掌のそれを、女のポケットに返すとマットの方へ振り向いた。
「マット、ちょっといいか」
「ん? OKよ。なになに?」
女から離れて、店の外へマットを連れて行く。入り口から少し脇へ入ったところでニールが低く吐き捨てる。
「お前、クスリやってるのか……?」
「何だよ、久々の再開を祝う言葉が聞けるんだと思ったのに」
「さっきのはどういう事だ。マリファナか? それとも……」
「まさか。そんなんでハイになれるわけないじゃん。あれはヘロインだよ。ピュリティーが高い高級品さ。中々手に入らないけど、再開を祝ってプレゼントしたんだ。遠慮しなくて良かったんだぜ?」
ニールが溜め息と共に首を振る。
「お前どうかしてるぞ。いつからだよ……」
「どうだったかな……。んー。彼女と付き合うようになってから、かな? 覚えてないや。なぁ、ニールもやってみろよ。最初はゲロったりするかもしんないけど、絶対気持ちよくなるからさ。セックスの20倍はぶっ飛べる。なんなら今からでも、」
「断る」
マットは昔から女癖の悪さはあった。常に彼女がいたし別れてもすぐ次の女をみつけてくる。よく二股を掛けて、揉めていたのも覚えている。それでも、薬に手を出すような人間では無かったはずだ。
「俺が言える立場じゃねぇが、クスリだけはやめておけ。止められなくなった奴の最期を、お前もよく知ってんだろ。死にてぇのか?」
マットは真剣に止めようとするニールを不思議そうな顔でみると、途端に笑い出した。
たった数ヶ月の間に、マットがクスリに手を出す人間に成り下がっていたなんて悪い夢でも見ている気分だった。前向きに未来を信じていたマットも、もしかしてあの頃から少しずつ変化していたのかも知れない。自分の事で精一杯だった自分が、それに気付けていないだけだったのか。
ニールはサングラスを押し上げると、辛そうに額に手を当て口を噤んだ。
「だってさ……。ニール。聞いてよ。うまくいかねぇんだよ……俺……」
笑っていたはずのマットが泣きそうな顔でニールを見上げる。遊園地ではぐれた迷子の子供のように視線を泳がすその様子は、酷く哀れで、出来ればマットのそんな姿を見たくなかった。
「なんの事だ。なにがうまくいかねぇんだよ」
「バンド止めてから、何もかもだよ。俺、どうしたらいいの? 何をしてもうまくいかねぇの。バイトもすぐクビになって、ギターを弾く場所もない。俺だって好きでこうなったわけじゃない。俺のせいじゃないんだ」
「……そんな、B級映画のジャンキーみたいな台詞をお前から聞かされるとはな」
腕を掴んでくるマットの手が小さく震えている。ニールはその腕をそっと外すとマットの肩を掴んで腰を屈めた。
「俺だってお前と同じだった。お前が一番よく知ってんだろ。でも、俺もお前ももう、ガキじゃねぇんだ。誰かのせいにしたって何も変わりゃしない。自分でどうにかしていくしかねぇだろ」
「ニール……、」
「お前が最後まで、バンドを一緒にやりたいって言ってくれてた事が、今になってやっと支えになっていたってわかった。今日は礼が言いたくて、ここに来たんだ」
「…………」
「しっかりしろよ。また一緒にバンド組んで一からやり直せばいいじゃねぇか」
「俺たち、また一緒にやれるのか……?」
「お前がそれを望むならな」
頷いたニールを見て、マットはとても安心したような表情を浮かべた。
これでわかってくれたのだと思っていた。
しかし、現実はそんなにうまくいかなかった。
毎日クスリをキメていたわけではないようで、普段のマットは前と変わっていなかった。
何度も辛抱強くクスリはやめるように約束させ、そちらに気が向かないように二人でメンバーを探しバンドも組んだ。
しかし、どのバンドも結局長続きはしなかったのだ。
情緒が不安定なマットがメンバーと揉める回数も数え切れないほどあり、その度に新しいバンドへ移行する。それの繰り返しだ。
マットがクスリに手を出すようになった直接の原因は、交際相手による物かも知れない。だけど、自分があの頃のマットの言葉に勇気を出してもう一度バンドを組んでいたら、こうはならなかったのではと、修正できない過去を悔やんでしまう。
少なくとも、こうなる前にマットを止められたのは間違いない。
原因の一端が確かに自分にもあると自覚すれば、このままマットを放っておくことが出来なかった。一度クスリに手を出した人間の不安定な精神状態に、普通の人間が付き合うのは相当な忍耐力が必要だった。次第にマットの奔放さについていけず、ニールは自分でも気付かぬうちにじわじわと蝕まれるようにすり減っていった。
日が経つにつれ、互いに厳しい現実に疲弊していく。このままでは二人ともダメになる。そう思ったニールが最後の手段として切り出したのがLAへの移住だった。
環境を変えてみれば何かが変わるかも知れないと思ったからだ。
長年シアトルで生活をしてきたが、この街には想い出が多すぎる。新しいスタートをきるには、その想い出が枷にしかならない事もわかった。一度全てを仕切り直す必要があったのだ。
彼女と別れてクスリから手を洗ったマットと共にLAに移り、互いにバイトをしながらスタジオを借りてギターの練習をした。LAでの生活にもすっかり慣れてきた頃、ニールのバイト先であるライブハウスで知り合った知人の紹介で、トミーとクリスに出会った。ドラムのトミーと自分とマットの三人でバンドを組もうという話になり、ボーカルとベースを募集する。その募集で出会ったのがブラスとスティーブンだ。
気のいいメンバーとの出会いで、最初は順調にいっていると思っていた。
しかし、一度クスリに手を出した人間が、完全にそれを断ち切るなんて奇跡でも起こらない限り無理だと思い知った。奇跡は当然起こらず。マットは、あまりにも幼くて、弱かった。
次第に練習をサボるようになり、色々な女に手を出しては乱れていく生活を最初は注意していた物の、いっこうに直そうとしないマットに苛立つことも増えていく。
暫くしてマットがまたクスリに手を出したと知った時、これが最後ではない事は心の何処かで覚悟していたのかも知れない。
* * *
時間にしたら数分程度。
ニールはステージ上で立ち尽くしている自分に気付きハッとするように息を呑んだ。
何も持っていない右手、ニールの目の前で視線を遮るように立っていたのはクリスだった。
どうして、自分が弾いていないのに音が聞こえるのか。一瞬そう感じるほどにクリスのギターソロは自分のそれにそっくりだった。圧倒されるようなクリスのギターに驚きを隠せない。
――……いつのまに……。
視線を床に落とすと、ギターからはシールドが抜けていて、自分のアンプにはクリスのギターが繋がれている。全ての事態を瞬時に察する。本番中に自分が犯した失態に気付いた所で、曲はもう終わりに近かった。
他のメンバーに視線を向ければ、誰一人として責めるような視線を向けてくる者もいない。ドラムを叩きながらトミーが指の形をOKに一瞬変える。スティーブンはネックを握る左手の親指で舞台袖を指すと「行け」とでもいうように促した。
クリスの背中に、メンバーに、心からの礼を視線で送り、ニールは袖へ向かいステージから降りた。背後から聞こえる”Truth”の歌詞が徐々に遠ざかる。
演奏が止み、観客席からは熱狂的な声援が聞こえ続けている。ニールがいる袖の方へメンバーが戻ってくる。トミーがドラムスティックを勢いよく客席に投げているのが見えた。
脱いでいたシャツを片手で背中に掛けながら一番に戻ってきたブラス。最後にトミーが戻ってくると、客席からは鳴り止まないアンコールの声が始まった。
「みんな、本当にすまなかった。迷惑掛けちまって……」
袖で待機していて謝罪を口にするニールの肩に、メンバー全員が一回ずつ手を置いていく。
ローディに渡された飲み物を受け取ったトミーが予備のスティックを手品のように取り出し、くるりと回すとニールの方へ向いた。
「ノープロブレム! 誰だってミスぐらいするさ。俺は自慢じゃないが、ライブ本番中に三回便所に行ったことがある男だ。ちなみに、今の所この記録は誰にも破られてない。うちのリーダーは、こういう時なんて言うと思う? はい、そこのベースの君、答えたまえ」
トミーがスティックでスティーブンを指す。指名されたスティーブンは「俺かよ」と小さく呟いた後、悪戯な笑みを浮かべてニールの口調を真似た。
「『幾らでもミスはしてもいい。その代わり、他のメンバーがミスした時は全力でカバーしてやれ。それがバンドだ』だろ?」
その台詞をきいて、クリスとブラスが目を見合わせた後ニールへと視線を向けた。
「正解! 俺が後で、褒美に熱いキスをしてやるよ」
「勘弁してくれ。裸で逆立ちする方がまだマシだ」
トミーとスティーブンが楽しそうに笑う。自分が前に言っていた台詞だ。
「おまえら……」
ニールが言葉を飲みこむ。
「よし、それじゃ、今夜のファンのためにアンコールにこたえてやるか。ニールはお遣いに行ったって言っといてやるから安心していいぜ。あ、そのネタさっきニールが使っちゃったんだっけ?」
機材にもたれ掛かっていたトミーが、笑いながらボトルの空を近くのダストボックスに投げ入れる。幾度か首を回したあとステージの方へ視線を向けた。
「後は俺たちに任せろって。あ、……それと、あの歌を最後に歌わせてくれて有難う。最高のラストライブになったよ」
ブラスがそう言って笑みを浮かべた。
誰も話し合う時間等なかったはずなのに、アンコールはニール抜きでやることを全員が承知していた。今夜だけは、その思いに甘えさせて貰う事にした。ステージ上にトミーとブラス、そしてスティーブンが戻ると、客席から悲鳴のような歓声が聞こえてくる。
汗を拭っていたクリスの側へ寄ると、ニールは足を止めた。
「クリス。お前のギターソロ、最高にイかしてた。有難うな、お前がいてくれて……俺は救われた」
「ニール……」
「どうしても、行かなきゃいけねぇ場所があるんだ。後はお前達に任せたぞ」
「うん、勿論」
面と向かって頼られていることに、クリスは照れたように何度も瞬きをした。
「あのさ……、ニール」
「ん?」
「ニールが、いつものニールに戻って本当に良かった」
クリスがニールの腕をギュッと掴むと安心したように眉を下げる。
「俺さ、待ってるから。ちゃんと戻ってこいよな。……必ず戻ってきてよ、ニール」
どれほど心配していたのか、込められたクリスの思いが掴まれた腕から伝わってくるようだった。ニールは安心させるようにクリスの手に自分の手を重ねながら、頷いた。
「ああ、約束する」
「良かった。じゃぁ、行ってくる」
クリスの手が離れ、眩いステージへ戻っていく。その背中はとても頼もしく見えた。
救ってくれたクリスの為にも、送り出してくれたメンバーのためにも、自分でけじめをつけなければいけない。
ニールは始まった演奏を聴きながら、廊下へと戻った。迷いのない足取りはしっかりと地面を踏みしめ揺らぐことは無い。
慌てたようなローディー達が、「何かあったのか」と聞きながらニールと歩調を合わせてついてくる。ニールは一度立ち止まって頭を下げた。
「心配掛けて悪い……。俺は大丈夫だ。最後まで他のメンバーのこと頼む」
それだけを告げて控え室へ戻ると自分の荷物を手にして部屋を出た。通路を通ってライブハウスの入り口に向かう。
ステージ上では、アンコールに応え曲を演奏しているメンバーが見えた。
自分のバンドを客席から見るのは初めてだが、贔屓目に見ても最高にかっこよく見えた。全員が自慢のメンバーだ。
一瞬だけクリスと目が合う。互いに視線を絡ませたままニールは優しげな表情で一度頷いて見せた。
周囲にバレぬようにアンディ達が居た場所に行き、車椅子の肩をそっと叩く。
マットは見当たらなかったが、あまりここに長居しているとファンに気付かれるので探している時間は無い。アンディは一度驚いたようにニールを見上げた後、すぐに状況を察してニールの後に続いた。ライブハウスを出て裏路地へと回る。
人気の無いその場所まで来た事に安心してほっと息を吐くと、アンディはニールを見上げて口を開いた。
「俺が泊まってるホテルが近くにある。そこで話さないか」
「ああ、……わかった」
ニールが携帯でタクシーを呼び、到着するまでの間、互いに一言も口をきかなかった。車椅子をトランクに積んで貰い二人で乗り込む。アンディが運転手に告げたホテルにはすぐに到着した。
再び車椅子を降ろしてもらいアンディを乗せる。車椅子を押そうと背後に回ると、アンディは器用に後ろへタイヤを回してニールを見上げた。
「押してくれなくても大丈夫だ。もう慣れてるからな。部屋に行こう」
「……」
ホテルはバリアフリーになっているようで、アンディは言葉通り慣れた手つきでホテルのロビーを抜けて進んでいく。ニールは後ろから着いていきながら、昔のアンディの面影を重ねていた。