──memory12──

     *     *     *
 
「桐野さん、いる?」 
 
 何度インターフォンを鳴らしても中々出てこない桐野に痺れを切らし、竜一は玄関を直接叩いて呼びかけた。駅からここに来る間にも連絡をいれたが、その時も桐野は携帯に出なかったのだ。 
 何度もコール音を聞きながら、まさか出掛けてる? と疑問に思ったがそれはないだろう。なぜなら、一昨日泊まって帰る際、週末に会う約束を確認したからだ。 
――どうしたのかな……。 
 竜一は土産に買ってきたビールの入ったビニール袋を一度地面に置き、横にあるキッチン脇の換気窓を背伸びして覗き込んだ。数㎝空いたままにはなっているものの、さすがに中の様子までは見えない。 
 仕方がないのでもう一度ドアを叩いて待ってみると、ようやく中で人の気配を感じられた。 
 やはり出掛けていなかったのだと、安堵の吐息が知らずに漏れる。 
 音が近づきピタリと静かになった直後、勢いよく開かれたドアからは寝ぼけ半分といった様子の桐野が顔を出した。 
 
「おう、あんたか。悪い、気がつかなくて」 
「ううん。もう夕方だけど、もしかして昼寝でもしてた?」 
 
 顔を覗き込んだ竜一と目が合うと、桐野は複雑な表情を浮かべて視線を逸らした。しかし、それを隠すようにすぐにいつも通りの言葉が追加される。 
 
「まぁ……、そんな所だ。自由人だからな、俺は」 
 
 奥へ引っ込む桐野と一緒に部屋へ上がり込む。入ってリビングのドアを開けた途端、竜一はゲホゲホと盛大に噎せて眉間に皺を寄せた。 
 部屋の上空を漂うどんよりとした煙の残骸と、煙草の匂いが充満していたからだ。自分も喫煙者だが、この空気の悪さにはさすがに驚くしかない。 
 思わず手で空気を払いながら「換気したほうがいいよ。こんな中で寝てたの?」と非難すると、桐野は漸く気付いたという風に部屋をクルリと見渡した。 
 
「ああ、煙草くせぇか。悪ぃ……。ずっと中にいると麻痺しちまうんだよな」 
 
 桐野が窓を全開にし、キッチンの換気扇を最強にして回す。 
 窓が大きいせいか一気に空気が入れ替わって綺麗にはなったが、代わりに部屋はめちゃくちゃ寒くなり、竜一はコートの襟をギュッと重ねて肩を竦めた。 
 
「朝までに片付けなきゃいけない事があって、昨夜は徹夜してたんだ。今日あんたが来る前に仮眠しておこうと思ったら……、気付いたらこんな時間になっちまって」 
 
 桐野は言い訳のようにそう言って、脱いだままの衣類を拾い上げると片隅へとバサッと置いた。店は暫く閉めるはずなのに、仕事が残っていたのだろうか。 
 しかし、目に付く限り、散らかってはいるが仕事絡みの物は見当たらない気がした。 
 
「ちょっと片付けるから、そこで待ってろ」 
 
 そう言って何カ所かの荷物を桐野が片付けるのを見ながら、竜一はほんの少しの違和感を抱いた。 
 いつもと違った空気が一瞬流れた気がしたのだ。 
 一昨日夜を共にした時はあんなに近くに感じた桐野との距離が、今日は掴めない。 
 差し込む強烈な橙色に染まった部屋を何気なく見渡せば、台所のテーブルには潰されたビールの缶が何本もあった。一人でこんなに飲んだのかと考えると、感じている違和感が不安に置き換わりそうになる。 
――何かあった? 
 喉元まで出掛かった言葉を竜一は飲みこんだ。 
 すっかり親しくなったつもりでいるけれど、一度寝ただけで彼氏面をするなんて、相手からしたらきっと面倒な奴だと思われるに違いないと考えたからだ。 
 竜一は、自らのその感覚を封じるように、努めて明るい声を出した。 
 
「そうだ。これ、ビール買ってきたんだ。冷蔵庫に入れておこうか?」 
「ああ、そんな気を遣わなくていいのに。サンキュー、じゃぁ入れておいてくれ」 
「了解」 
 
 竜一は冷蔵庫の中へ買ってきた物をしまい込み、何となく視界に入れたくない気がしてテーブルの上の空き缶を素早く片付けた。 
 僅かに残っていたのか、手に取った空き缶からビールが滲み出て指が濡れる。アルコールの匂いが鼻を掠めた。 
 流しの洗い物もそのままだったので、手を洗うついでに洗ってしまおうと洗剤を含ませたスポンジを手に取った時、見慣れない物が視界に入った。 
――……あれ? 
 シンクにある三角コーナーの中に、何種類かの薬のシートが捨てられている。 
 
 最小限の首の動きだけでチラッと背後の桐野に視線を向けると、こちらには背を向けており見ていないようだ。 
 竜一は手を伸ばしてシートを取ると、薬の名前を確認した。しかし、市販薬ではなさそうで、見た事もない名前の薬なのでよくわからない。 
 水道を流しっぱなしでぼんやりと考えていると「食器洗ってくれてんのか?」と桐野が声をかけてきたので、慌ててシートを元の三角コーナーへと捨てコップを手に取った。 
 
「あ、うん。ついでだから。それと、そんなに片付けなくてもいいよ? 部屋が散らかってるのは……もう、知ってるし。俺平気だから」 
「順応早いな」 
「そんな事で褒められても嬉しくないって」 
「それもそうか」 
 
 洗い終えた食器を乾燥機の中へ伏せると、竜一はようやくコートを着たままである事に気付いた。換気をしたせいで寒くなったので、このままでも良い気がするが、一応脱いで椅子へと掛ける。 
 そろそろいいだろうと轟音を放っていた換気扇を消すと、部屋が一気に静まりかえった。 
 くだらない冗談を次々に言ってくるはずの桐野は、今日に限って口数も少ない。話すのを躊躇うようなその姿を見ていると、ドクンと嫌な感じに自らの心臓の音が聞こえた。 
 
 先ほどの薬のことを聞いてみようと思い、竜一はリビングへ戻ると桐野の傍で足を止める。よくよく見ると、なんだか顔色も悪い気がするが、それはいつもと違って桐野が髪を下ろしているせいなのかもしれない。 
 
「桐野さん」 
「どうした?」 
「もしかして、どっか調子悪いの?」 
「なんだ、やぶからぼうに。別に普通だ、いつも通り」 
「いや、……キッチンに薬が捨ててあったし、ちょっと顔色も悪いみたいだから心配になって……。無理してるなら、俺、今日は帰るよ」 
 そう言った竜一に桐野が呟く。 
「……来たばっかりじゃねぇか」 
「だって……、俺がいたら、ゆっくり休めなくない?」 
「……、」 
 
 少しだけ俯いた竜一に、桐野が何か言いかけたが、それが言葉になる事はなかった。「そんな事はない」と今までの桐野なら否定してくれると期待していた自分に気付く。 
 竜一に背を向けた桐野がどんな表情をしているのかわからない。 
 無造作に散らばった長い髪をかき上げ、返された言葉は若干の苛立ち、もしくは焦りのような物を含んでいる気がした。 
 
「先回りして人の気持ちを汲もうとすんなって、いつも言ってんだろ」 
「……別に、そういう意味じゃ」 
 
 言いかけて振り向いた桐野を見上げると、桐野は気まずそうな顔で竜一を見つめていた。 
 
「そうやって、今までの相手にも、顔色をうかがって遠慮してきたのか?」 
「……っ、」 
 
 桐野の突き放すような言葉がグサリと胸に刺さる。竜一が返す言葉を失っていると、桐野はすぐに言ったことを後悔するように頭を振って「すまん」と謝った。 
 
「今のは、俺の言い方が悪かったな。忘れてくれ」 
「ううん、本当の事だし……。この前も言われたから、気にはしているつもりなんだけど」 
 
 竜一は精一杯の自嘲気味な笑みを浮かべた。 
 桐野はそんな竜一を見て抑えきれないとでもいうように腕を伸ばした。竜一の頭を、愛しげにそっと撫でた後、自分でも驚いたようにハッとしてその手を引っ込めた。 
 
「どうしたの? 俺別に桐野さんに触られるの嫌じゃ無いよ」 
 竜一が不思議そうに桐野を見上げる。 
「いや……。急に触って悪かった。覚えておこうと思ったら勝手に手が伸びちまって」 
「覚えるって??……なにを?」 
「あんたを、こうして撫でる感覚をさ」 
 
 そういえば、この前の夜にも似たような事を言われたと思いだす。覚えておくとは、どういう意味なのだろう。 
 
「……? いつでも、撫でられるのに?」 
「……そう、だな」 
 
 桐野は竜一と距離を取るようにして、後ろへと少し下がった。 
 やはり、理由はわからないが今日の桐野の様子はおかしい。 
 やはり後でちゃんと話を聞いてみようと思いつつも、今はまだ気付いていないふりをしておく事にした。 
 
「あ! そういえば、階下の店、今日は見せてくれるんだよね。楽しみにしてたんだ」 
「そういや、そういう約束だったな。んじゃ早速見に行くか? 大した店じゃねぇけど」 
「ううん、それでも一度中を見てみたかったんだ」 
 
 出会った日も閉まっていたし、こうして会うのは休日だしで、一度も店が開いているところを見た事が無いので、今度店の中を見せて欲しいとお願いしていたのだ。 
 
「こっちから下りられるから、ついてこい」 
 
 下に続く階段を下りる桐野の後をついていく、真っ暗だった店内の電気を桐野が点けると店の中がパッと照らされた。 
 思っていたより、いや、かなり綺麗にしてあったので竜一は驚いて素直な感想を言った。 
 
「へぇ……。綺麗にしてるんだ。上とは大違いだね」 
「これでも一応客商売だからな」 
 
 それだけではないのだろう。物が少ないのは、先日店を暫く休業すると言っていたので、新たな修理依頼を受けていないせいもあると思う。 
 竜一はあたりさわりのない範囲で言葉を選び、口を開いた。 
 
「自分で店やってると、きりがないもんね。たまには休むのもいいと思う」 
「ああ、そうだな」 
 
 カウンターにはバーコード読み取り機能のない少し昔の懐かしいレジが置いてあり、小さな動物の人形が横に飾られている。首を振るそれを指でつついてから店内へ進む。 
 
「再開する目処は……もうたった?」 
 
 様々な箇所を見て回りながら竜一はそう言って桐野の返事を待った。 
 胸が嫌な感じにざわついて早く答えを言って欲しいのに、桐野からは何も返ってこなかった。 
――……桐野さん? 
 カウンターの内側で立っている桐野の方へ振り向くと、桐野は今まで一度も見たことが無い暗い表情で卓上に広げてある受注リストを見つめていた。急にどうしたのだろう。 
 竜一は近くまで戻って、桐野の顔を心配気に覗き込んだ。 
 
「桐野さん?」 
「……あ」 
 
 桐野は少し慌てて「どうした?」と首を傾げた。 
 
「店、再開する目処は? って聞いたけど、返事が無かったから」 
「ああ、……ちょっと別のこと考えてた。再開は……まだ、決めてねぇんだ」 
「そっか、まだ休みにも入ったばかりだもんね」 
「……ああ」 
 
 カウンターに腕を置き、ゆっくりページを捲る桐野と並んで一緒にリストを眺める。至近距離によると、先日の夜にも感じた桐野の安心出来る体温を感じる事が出来た。 
 二週間前が最後の依頼日で、そこには店内引き取りのマークがあり、「済」のチェックがつけられていた。 
 去年、一昨年、どんどんページを遡る。三年前のページまで遡ったところで、桐野の手が止まった。 
 
「修理の仕方……、忘れねぇうちに再開しないとな」 
「大丈夫だよ。少し休んだからってすぐ忘れるなんてありえないって」 
「…………」 
 
 桐野が何故か寂しそうな表情を浮かべるのを見て、理由も知らないのに、否、知らないからこそ竜一も釣られて胸がキュッとなった。しんみりした雰囲気を和らげようと、竜一は店内を見渡し桐野に背を向ける。 
 
「でも、想い出を修理してくれる店なんて、そうそうないから。長くお休みしてたらみんな悲しむんじゃないかな。ここ、俺は好きだよ」 
「……ああ、俺の自慢の店だからな」 
「そうだね」 
 
 桐野は出しっぱなしにしてあった受注リストを引き出しにしまうと、店の電気に手を掛けた。 
 
「そろそろ上へ戻るか? 見ても面白いもんなんてそんなにねぇだろ」 
「そうでもないよ。もうちょっとみてたい。電気ちゃんと消していくから先に戻ってて」 
「んじゃ、任せるわ。早く来いよ」 
「うん」 
 
 桐野は竜一を店に残したまま、階段を上った。 
 桐野がいなくなったあと、竜一はひとつ詰めていた息を吐きだした。 
 壁の一角に修理した客から送られてきたのであろう感謝の葉書や写真が飾られている。近寄ってみると、今より髪の短い桐野が、修理したぬいぐるみを抱いた小さな女の子を抱き上げている写真があった。隣には母親もうつっている。 
 女の子も、桐野も、そして綺麗に修理されたぬいぐるみも皆笑顔だった。 
 他にも、似たような写真がいくつも貼ってあった。 
 
――想い出を修理してくれる店、か……。 
 
 それが本当に言葉通り、寧ろ言葉以上の意味がある事を実感させる。ひとつひとつの依頼を大切にしている桐野らしさが、こんな所にも現れていると思う。 
 そういえば、昔別の会社で働いていた桐野と出会った際にも、同じ事を思った物だ。仕事に関して誠意を持って取り組むその姿勢は、男として人間として尊敬していて、自分も見習うようにしようと思っていたのだ。 
 今は閉められているシャッター、開かれれば店内に日が射し込むだろう。暖かな陽射しの中で、修理して貰った物を受け取る客はきっと皆笑顔で、それを見送る桐野も優しい表情をしているのだろうと想像がつく。 
 その光景を思い浮かべて、竜一は一人微笑ましくなって口元を緩めた。 
 
 自分が知らない桐野の顔は他にも沢山あるはずだ。 
 今の特殊な関係から、ちゃんとした恋人になれる日が来るのなら。その時は、店が開いているときに表からちゃんと見に来てみようと思う。 
 そう思ってレジの方へ向かうと、上階で何かをひっくり返したような派手な物音がし、竜一は驚いて身体をびくりとさせた。 
 慌てて階段へ近づき声を掛ける。 
 
「桐野さん、大丈夫? なんか凄い音がしたけど」 
「あー、箱を落としただけだ」 
 
 すぐに遠くから桐野の返事が聞こえる。もう一度店内を見渡してから、言われたとおり店の電気を消して、駆け足で階段を上った。部屋に戻ると、桐野が部屋の隅でしゃがんで何かをしている。 
 
「今これ落としちまって。あ、そこ、気ぃつけろ、ネジ踏んだら刺さるからな」 
「え」 
 
 桐野の言うとおり危うく踏みつけそうになっていたネジを避けて、一度足を止める。何も床に落ちていない場所を探すと竜一もしゃがみ込んだ。 
 
「あぁーあ。これ絶対いくつか、どっかいっちまっただろうな」 
 
 散乱しているネジは、かなり大きな物から、ミリ単位の物まで、缶に入れてしまっていたのが落下したらしい。上方から落としたらしく、入っていたケースの角で床に凹みが出来ていた。 
 
「凄い音だったし、ビックリしたよ。ここ、床もちょっと傷ついてちゃってる。桐野さんって手先は器用なのに、実は案外ドジなんだね」 
 
 屈んで一緒に拾いながら、竜一は桐野の方へ目を向けた。返事はなくて、その代わり一瞬桐野がぐっと息を詰めるように眉を寄せているのが見えた。次の瞬間にはいつも通りの表情に戻っていたので見間違いかも知れないが……。 
 どんどん拾って掌に一杯になったネジを缶に戻していると、桐野の手が不自然に止まっている。厳密に言えば拾おうと床にのばした指先が、見当違いの場所をさらっているせいで拾えていないように見える。 
――桐野さん? 
 様子を窺ってみるも、桐野は髪をおろしているので俯かれると顔が見えなかった。 
 かなり細かいネジもあるようなので、それらを探しているのだろうか。 
 何度か目を擦った桐野が短く呼吸を切って口を開いた。 
 
「悪ぃんだが、これ、拾っててくれねぇかな」 
「え? うん。いいけど」 
「すぐ、戻るから」 
 
 桐野はそう短く言い残し、何かを急に思い出したように慌てて腰を上げ寝室の方へ行ってしまった。続けて床の釘を掌に載せながら、竜一は心配気に寝室のドアに視線を向けた。 
 
 
 
 
 
 
 寝室のドアを後ろ手でしめ、なんとか鍵をかける。 
「……っう、……」 
 桐野は呻くようにして床へとズルズルとしゃがみ込んだ。割れそうに痛む頭を、痺れて感覚のなくなった指で支える。 
 額に浮かんだ冷や汗で掌が滑る。 
 
 今日は二回目だ。朝の起き抜けにも一度同じ状態になり薬を飲んでなんとか治めた。 
 日にこう何度も発作が起きるなんて、今までにはなかったことだ。 
 きっと寝不足のせい。そうに違いない。強引に簡単な原因の方へと思考をむかわせようとするが、どうしても昨日医者が言っていた言葉に引き戻されてしまう。 
 
――そろそろ覚悟を決めて頂かないとタイムリミットです。 
 
 言われた言葉と重なるようにして、脳内に時限爆弾のスイッチが入る光景が浮かぶ。 
 凄い早さでカウンターの数値が減っていく。そのリアルな光景が不安を掻き立て、身体を余計に強張らせた。 
 
――……やめろ、……。 
 
 恨めしく思いながら眼鏡を外し、きつく目を閉じる。何をどうやっても激しい頭痛は治まらず、あまりの痛みに吐きそうになる。しかし、竜一がそこにいるので必死に声を押し殺した。 
 数分すると徐々に我慢出来る程度の痛みになってきて、桐野は恐る恐る閉じていた目を開けた。手を握ったり開いたりして感覚を確かめ、ドアからなんとか離れると、ベッドへ移動して倒れ込んだ。 
 乱れた呼吸のせいで上下する胸が、伏せた視界の隅を掠める。 
 
 枕に敷いてあったタオルで汗を拭うと、桐野は呼吸を落ち着けて苦しげに眉を顰めた。 
 竜一には、やる事があって一晩中片付けてをしていたと言ったが、本当はそうではなかった。ごまかすように大量のアルコールを流し込んでも頭は冴えたままで、いっこうに眠りにつけなかったのだ。 
 疲れ切った体がようやく言う事を聞いてくれたのは、もう外が明るくなってからだった。 
 
 昨日の医者の言葉をきいてから、何度も何度も繰り返し考えた今日のこと。 
 覚悟は出来たとは言え、それをどうやって竜一に伝えるのが一番いいのか。 
 今だって結局正解はわからないままだった。 
 先程から何度も話を切り出そうとしたが、まだちゃんと話も出来ていない。 
 
 このドアの向こうには、まだ何も知らないままの竜一がいる。 
 先延ばしにしている己の弱さに自分でも嫌気が差すが、それ以上に、少しでも長くこのままでいたいと強く願ってしまう自分がいた。 
 桐野は自身の心の中の鍵をきつくかけなおし、一度深く息を吸い込んで腰を上げた。 
 
――もう十分だ。このドアを開けて、竜一を解放する。 
 
 握り込んだドアノブがやけに冷たい。 
 それがまるで、未来の自分達を表しているようだと思った。