──memory14──
* * *
桐野の退院から、早い物でもう二ヶ月が経とうとしている。
術後暫くは後遺症で頭痛や目眩があったが、それもすでに治まり桐野は順調な回復を見せていると笹松から聞いたのが一ヶ月前だ。今も週に何度か通院はしているらしいが、端から見ればまるで手術をした事が嘘のように元気である。
竜一は、桐野の店に続く手前の曲がり角で一度足を止めた。
竜一のスーツの背中全体にほとんど落ちている今日最後の夕陽が照りつけている。
自分の影に視線を落とし、竜一はゆっくりと深呼吸をした。手にした紙袋の中身を見てしまえばいつも複雑な気持ちになるので、視線はなるべく向けないでおく。
今日もこんな所まで来てしまったけれど、自分のしている事がこれでいいのか自信は全く無かった。
「……よし、行くか」
なんとか一人で気合いを入れて一歩を踏み出す。
角を曲がってすぐ見えてくる桐野の店には、桐野が退院して店を再開してから通い始めた。今日でもう四回目だ。
硝子張りの店内が見えてくる。
中に客は誰もおらず、カウンターの内側で桐野が雑誌を眺めている様子が見えた。
現在は手術時に髪を剃らない無剃毛手術が主流らしく、桐野の髪は長いままだ。
しかし傷があるのは確かで暫くは結ぶことは出来ないらしい。これはこの前来た時に、桐野自身が話してくれた
竜一がドアを押して店内へ足を踏み入れると、気付いた桐野が「ああ、佐久間さん。いらっしゃいませ」と顔を上げた。
「こんにちは、いつもギリギリの時間ですみません」
仕事帰りで、どう頑張ってもこの時間が精一杯なことを謝り、笑みを浮かべてカウンターへ向かう。
「誰も来なくても、店番はしてるわけだしね。何時でも構わないよ。今日は、例の電話で言ってたゲーム機?」
桐野が竜一のさげている紙袋を指して問う。予約が必要な店では無いけれど、昨日のうちに予め来訪することを電話で伝えておいたのだ。
「そうです。もうサポート期間も終了していて、直してくれるところがなくて……」
「二十年ぐらい前に発売された機種だからなぁ。俺も直せるかわからないけど、どれ、ちょっと見てみようか」
「はい、お願いします」
紙袋ごと桐野へと渡すと、桐野は中のゲーム機を取り出してカウンターに背を向け、そばにある作業台に移動した。小さなモニターがついた物に今渡したゲーム機を接続すると、激しく乱れた画面が映し出され耳障りなピーッという音が鳴り続ける。
相当壊れているのが素人の自分でもわかる画面だ。
桐野は電源を落とすと、そっと優しく接続線を抜いて裏のネジを外しだした。
作業をする桐野の広い背中、一度はその背中に縋って愛を確かめ合った日もあったというのに、今はこんなにも桐野が遠い。客相手の口調、それがよそよそしいわけではないけれど、二人で会っていた昔の桐野とは違って、それがまた胸を締め付ける。
竜一は、思わず感傷的になりそうな気持ちを堪えたまま明るい口調で訊ねた。
「桐野さん、体調はどうですか? この前、頭の手術をしたって話していませんでしたっけ」
「ああ、おかげさまで此の通り元気ですよ。客もそんなにまだ来ないしね。半分休んでいるようなものだから、暇で仕方ないよ」
背を向けたまま返された言葉。今日もひとまず元気なのだという事実に少し安心する。
ただの客に桐野が体調についての詳細を話す訳は無いとわかっていても……。
暫くして桐野がくるりとカウンターへ向き直り、ちょっと得意げな笑みを浮かべた。
「幾つか部品を交換したらどうにか直せそうです。少し時間がかかるかもしれないけど、預かっても大丈夫?」
「はい。急いでないので、桐野さんの都合の良い時でお願いします」
「了解」
桐野はノートに必要事項を細かく記載してカウンタの前にいる竜一へとスッと差し出した。
「じゃぁ、ここにサインお願いします。修理にかかる費用は、色々部品を取り寄せないといけないから……、そうだな。取りかかる前に佐久間さんに連絡して伝えるって事で。ご了承頂けたら進めます」
「はい」
受注のノートは相変わらず手書きのようで、竜一は今日の日付の横にサインをした。本当に今は客が少ないらしい。受注ノートの過去一ヶ月の件数は、ざっと見る限り以前見せて貰った時の半分ほどであった。
「直ったらこちらからご連絡さしあげるってことでいいですか?」
「はい、それで」
引換証にもなる伝票を書きながら、桐野が思い出したように口を開く。
「そういえば、この前のゲーム機はその後順調に遊べてる?」
「大丈夫です。あまりゲームする時間が無いから二、三度しか起動させていないけど」
「佐久間さんってゲーム本当に好きなんですね。マニアックなゲーム機持ってるみたいだし。こんなに大切に長く遊んで貰えて、ゲーム機も本望だろうね」
桐野の言葉に罪悪感が湧き、胸がズキンと痛んだ。
「そんな……。たまたま……、実家から昔遊んでた物を一気に引き取ってきただけだから。普段はそこまでやらないんです。でも折角なら遊べる状態にして、置いておきたいなぁと思って」
苦しい嘘に聞こえるかも知れないが、聞かれたらこう答えようと予め考えてきた物だ。本当は実家なんてないし、ゲームにだって興味は無い。
桐野の店に持ち込むためにフリマサイトでジャンク品のゲーム機をわざわざ買って持ってきていると知ったら桐野はどう思うだろうか。
そろそろゲーム機ではない何かに変えないと怪しまれそうだが、他に何が良いかと聞かれると良い案が思い浮かばない。子供もいない三十路独身男がぬいぐるみを何度も修理に持って来るというのも目立つだろうし、人形なども同じ理由で考えられない。
俯いたままそんな事をぐるぐると考えていると、桐野が心配そうな顔で「どうかした?」と声をかけてきた。
「い、いや! 何でも無いです。今日の夕飯何にしようかなぁって」
桐野はそれをきいて小さく笑った。
「確かに、夕飯は何にするかは迷いますよね。俺も何食おうかな」
「桐野さんは、自炊をされているんですか?」
――ほとんどしないって知ってる
「いや、俺は料理は全く。今日もどこか食いに行く予定です」
――外食ばかりは体に悪いって言ったのに
桐野に以前聞いた事を再度訊ねては、同じ答えが返ってくることに空しさを味わう。
「あ、そうだ」
千切って引換証を渡した桐野が時計をもう一度見て、カウンターから腰を上げた。
「佐久間さん、良かったら今から夕飯一緒に食いに行かない? 考えなくて済みますよ」
「……え、俺と二人で?」
「少し待ってて貰えれば、そろそろ店閉める時間だし。無理にとは言わないけど予定が無ければ」
常連になりつつあるとはいえ、ただの客と店員の関係で誘われるとは思ってもいなかった。面食らったように立ち尽くす竜一は返事を待っている様子の桐野の視線にハッと我に返った。
「えっと、嬉しいです。是非」
「良かった。じゃぁちょっと店内でも見てて。閉める準備するから」
「はい」
桐野と二人で夕飯。不安もあるが、それよりまた二人でプライベートな時間を過ごせるなんて思ってもいなかったので嬉しかった。
竜一は店内を見渡しながら、ドキドキする胸を必死で宥めていた。
片付けをしていた桐野が二階へ上がり、そのあと暫くして店へと戻ってきた。
「お待たせ。店のガレージ閉めて俺は自宅の方から出るから、外で待っててくれる?」
「はい、わかりました」
店の外へ桐野と一緒に出る。待っているとガレージを閉めて姿を消した桐野が二階から下りてくる足音が聞こえた。コートにマフラーも巻き付けた桐野が肩をすくめる。確か、マフラーなどは面倒なので好きじゃ無いと言っていたはずなのにと、そんなわずかな違和感を抱きつつも桐野へ視線を向けた。
「まだ、外は寒いなぁ……」
「そうですね」
「佐久間さんは、何が食いたい? ……って聞いたら、結局考えちまうか」
長身の背中をやや屈めて笑いかけてくる桐野に並んで歩き出す。
「俺はどこでもいいですよ。ファミレスとかで十分です」
「そう? じゃぁ、ファミレスにするか。気取った店を知らないから助かる」
「俺もそういう店全然だから」
一度前に桐野といったことのあるあのファミレスなのだろう。歩く方向を見ると、多分正解だ。
竜一は、自分が手がけたクリスマスカタログの話を楽しそうに聞いてくれたあの日のことを思い出していた。完成したら見せてくれと約束したあのカタログ。仕事は無事に納品を済ませ、クリスマスにはデパートの化粧品売り場に鮮やかなカタログが沢山積まれた。
だけど、桐野がそれを手に取ってくれることは無かった。
クリスマスはとっくに過ぎて、正月も終わってしまった。
あの日手を繋いで歩いた道を今は少し離れて桐野の歩調に合わせる。あまり綺麗に舗装されていないアスファルトから、歩く度にジャリッという音が聞こえる。すっかり外は真っ暗で、冬の日の落ちる早さに驚かされる。
薄暗い外灯のなか、歩いていた桐野がフと足を止めた。
「……桐野さん?」
「……」
気付けば、出会った廃ビルの前にさしかかっていた。いつみてもどんよりとした暗いビルだ。竜一の胸がドクンと脈打ち口の中が渇く。
どうしてここで足を止めたのか。様子を窺うと、真っ白な息を何度か吐きながら桐野は特別な表情を浮かべないままポツリと呟いた。
「この前、佐久間さんに話しただろ? 頭の手術をしたって」
「あ、……はい」
「手術は成功したんだ。だから今、こうしてまた普通の生活に戻ることが出来てる」
「…………」
「医者もさ、体的にはもう心配ないって言うんだよ」
「そうですか。本当に良かったですね」
「ああ、良かった。……そう、良かったんだけどさ。時々思うんだよな。俺は、本当に手術をする前の俺なのかって」
「っ、……それは……どういう?」
「よくあんだろ? 宇宙人に連れ去られて改造されるってやつ」
「まさか、それ都市伝説ですよね」
「まぁ、今のは冗談だけどさ」
桐野がおかしそうに笑った後、すっと切なげな表情を浮かべた。
「退院してから、きまって同じ夢を何度も見るんだ。楽しい夢じゃねぇけど、悪夢って訳でもない」
「……どんな……夢なんですか?」
「このビル」
桐野が目の前の廃ビルを指す。丁度入り口の壊れたドアから、どぶねずみが二匹飛び出して道路脇の排水溝へ走って行くのが見えた。
「ここの屋上で、誰かを待ってる夢だ。誰を待っているのかは未だにわかんねぇし、結局ずっと一人で待ってて、そのうち目が覚める。……そこに行けば何か分かるかも知れないと思って、この前屋上まで行ってみたんだが、結局なんにもわかんねぇままだ。奇妙な話だろ?」
「……そうですね。でも夢ってそういうもんだから。それか……」
それか? 自分は何を言おうとしているのか。竜一は自身で驚き、一度渇いた喉に唾を飲みこんだ。
「桐野さんがこのビルで待ってる人も、……桐野さんを待っているから、じゃないですか」
「互いに待ってるって事か? でももしそうだったら、俺はその思い出ごと失くしちまってるって事なのかもな」
桐野は屋上を見上げて、失くしたかもしれない何かを探すように視線を動かした。
「……いつか……、」
思わず言葉に詰まって思いが込み上げてくるのを堪え、竜一はぎゅっと拳を握りしめた。「俺を待っていてくれたんじゃないの?」そう聞いてしまえたらどんなにいいだろうと思う。
だけど今の桐野の中に過去の自分がいないという事を思い知らされるだけだと分かっているから聞けなかった。
「いつか、待ってる人が夢で出て来てくれるといいですね」
「ああ、そうだな。気長に待つしかねぇか。悪ぃ……。急に変な話聞かせちまって」
「いえ。……ていうか桐野さんって、普段はそう言う話し方なんですか? なんか雰囲気が違うから」
「……え? ああ、そっか……。そうだよな」
桐野はばつが悪そうに頬を掻いた。
「つい気が緩んじまって……」
「いいですよ。そのままで、俺といるときには楽にしていて欲しいから。素のままで」
「そう? 悪ぃな。じゃぁ、佐久間さんと一緒の時はそうさせてもらうわ」
「はい」
「佐久間さんも、敬語とか疲れんだろ。普通に話してくれて良いよ。そのほうが俺も話しやすいし」
「じゃぁ、なるべく努力してみます」
桐野は嬉しそうに目を細め「佐久間さんとは話しやすいからついベラベラと余計な事を話しちまう」と言って笑った。
少し歩いてファミレスへ到着すると時間が早いからなのか空いており、すぐに席へと案内された。
まだアルコールが禁止されている桐野は文句を言いながらソフトドリンクを飲み、他愛もない会話をしながら桐野との時間を過ごした。
すぐ冗談を言って笑わせてきたり、話題も相変わらず豊富で聞き上手。何ひとつ変わっていない。
こうしていると以前の関係に戻ったと錯覚してしまいそうになる。
「佐久間さんは、どんな仕事してるの?」
しかし、桐野の言葉ですっと現実に引き戻された。
「……俺ですか。俺は、……印刷会社で働いています。凄く小さい規模の所だけど」
「へぇ、そうか。そっちの関係は詳しくないけど、結構残業とか多いんじゃないか?」
「そうですね……。大きな仕事が入れば時間押すんで」
桐野はもう一度「大変そうだなぁ」と少し心配そうに眉を下げた。
桐野が自分を思い出すことが無くても、最初からやり直して友人ぐらいにはなれるのではないか。そう思って退院した桐野に近づいたのだ。
覚悟は決めていたし、願いが叶わない場合はちゃんと諦めようとも思っていた。
なのに、話せば話すほど辛くなる。
楽しみにしていた桐野と二人きりの時間は、竜一が思っていたような物では無かった。
今までは客と店員という距離があったからなんとかなっていただけだったのかもしれない。
こうして距離が近づいてしまうと、嫌というほど桐野と自分の、相手に対する感情の種類の違いを自覚せざるをえなくなる。それは今の竜一には拷問にも等しい痛みしか無かった。
やはり少し距離を置いた方がいいのかもしれない。
「桐野さん、そろそろ俺帰ります。明日仕事だし」
「あ、そうだな。悪かったな。長々と話しちまって」
「いえ、楽しかったです。誘ってくれて有難うございました」
自分が無理に誘ったからどうしても桐野がおごるというので、今夜は桐野の言葉に甘える形になった。
桐野は自宅へ、自分は駅へ向かうのでファミレスを出たところで別れることになる。暖かだった店を出た途端冷たい風が吹いて、竜一は寒さに小さなクシャミをして鼻をすすった。
その瞬間、ふんわりとした温かな温もりに包まれ驚いて顔を上げる。
――……え?
桐野が自分が巻いていたマフラーをかけてくれたのだ。
「風邪引くぞ」
「……、で、でも」
「俺はすぐそこまで帰るだけだし。安心しろって。レンタル料はとらねぇから」
そう言って笑う桐野は、多分本当にただの好意で、その裏に特別な感情も無くて……。返そうと思ったけれど、どうしても出来なかった。かじかんだ指先も、気持ちも、拒否することを拒んでいる。
桐野がかしてくれたマフラーにそっと手を添え、その温かさと彼の匂いを感じてしまえば、性懲りも無く目頭がジンと熱くなってきてしまう。
「ゲーム機を引き取りにきた時、返しますね」
「おう」
「今日は、ご馳走様でした」
「いや、久々に楽しい飯が食えた。佐久間さんのおかげだな」
「それじゃ……、ここで」
桐野の傍にいるのが辛くて逃げるように背を向けた竜一の腕を桐野が咄嗟に掴んだ。大きなその手に掴まれる感覚を忘れていない。ビクッとした竜一に、桐野が慌てて手を離した。
「佐久間さん」
「……」
「もし、嫌じゃなかったら、また今度飯でも一緒に行かないか」
桐野との距離が少しずつ縮まることに喜ぶ自分はすっかり今は影を潜めていた。竜一は振り返り、桐野の方へ顔を上げないまま呟く。
「仕事が忙しくなるんで……、暫くは時間が取れないと思います……」
遠回しの拒絶と受け取ったのだろう。桐野はすぐに引き下がった。
「……そうか。じゃぁ、仕方ないな。仕事頑張って。ゲーム機直ったら連絡するから」
「はい、じゃぁまた」
竜一はその場をすぐ去り、足早に道を進んだ。
振り返ったら桐野が見ている様な気がして、しまいには駅までの道を駆け出す。
――何やってるんだろう。俺……。
今度は自分が桐野を支えるんだと覚悟を決めたというのに、これじゃ桐野を困らせるだけだ。わけもわからず逃げるように去った自分に桐野が「何か気に障る事をしたのかもしれない」と思い悩んでしまうかも知れない。
自分のふがいなさに苛立ちと情けなさが押し寄せ、竜一は走って上がった息を整えながら唇を噛みしめた。
* * *
自宅に戻った竜一は、電気も付けずに上がり込むとどっと疲れた体をソファへと沈めた。暖房の付けていない部屋は酷く寒くて、靴下を穿いている足先がかじかんでくる。
「……疲れた」
ポケットに突っ込んでいた携帯が布の中で淡く点灯しているのがわかり、竜一は緩慢な動作で携帯を取りだした。メッセージが届いているらしい。相手を見てみると笹松だった。
桐野が倒れて一緒に病院に行った日連絡先を交換し、それから時々連絡を取るようになった。
笹松には全て本当の事を話さなくてはいけない状況があり、桐野との関係も知られているので心配してくれているのだろう。
久し振りに会って話しませんか? という誘いにOKするかどうか暫く迷った。
当分の間、桐野のことは忘れて距離をおかないといけないと考えていた所だったからだ。
しかし、それと同じぐらい誰かに話を聞いて欲しいという気持ちもあった。
笹松は笹松で桐野と桐野の実家の問題で色々あって、時々互いの相談をするようになっている。むこうもこちらが全くの部外者である事で話しやすいのかも知れない。
笹松は自分より年下ではあるが、しっかりした考えを持った人間で桐野のことを自分とは別の意味で一番慕っているのだ。
竜一は暫く考えた後、メッセージ画面に都合の良い日を書いて返信をした。
これからどうしたらいいのだろう……。
暗い部屋で目を閉じれば、たちまち最悪だったあの日の事が浮かんでくる。
人生であんなに泣いたのは初めてだった。